報恩抄 四月度 御書講義

四月度の御書講義は「報恩抄」で、拝読範囲は御書全集328ページ16行目から329ページ7行目となっています。
御書学習会の担当者として、以下に、御書本文と研鑽しての所感や引用を述べてみました。


日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし、此の事いまだ・ひろまらず一閻浮提の内に仏滅後・二千二百二十五年が間一人も唱えず日蓮一人・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱うるなり、(■講義一段目御書本文引用)


いよいよ南無妙法蓮華経が世界に広がっていく。三大秘法の南無妙法蓮華経は世界に広がっていくべきものという宣言をなされている部分です。

法は人によって人に伝えられ、弘められ、顕されて「人を幸福」にするもlのです。その法こそ本当の仏法です。

脱益の妙法の教主の本迹「所説の正法は本門なり能説の教主釈尊は迹門なり、法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」(百六箇抄より)

すばらしい法門もただ存在するだけでは何の価値も生じません。これを弘める人がいてこそ現実に価値を生じるのであって、人・法ともに尊しと仰せになっています。このあたりまえの事実に今更ながら「凄いことだ」と感動を禁じえません。

この「弘める」とは一人から一人へと、法の偉大さと功力を人間生命の上に、実生活の上に、ありありと顕現させゆくことに他なりません。ここに、末法の教主・日蓮大聖人の人本尊としての偉大さがあるのです。

架空の仏をただ有り難がる信仰観が蔓延する現代です。また、架空の仏や、法門の存在のみをひけらかして、その権威の上に安穏とする名ばかりの仏教者達。まさに葬式のための仏法に成り下がってしまった末法今時と言わざるをえません。

人とはまた、師匠と仰ぐべき存在でありましょう。真の仏法の師匠は、法の功力を我が身に表そうとする人に、その具体的な実践方法を最高の模範を示しながら教授して下さる存在です。すなわち「人間革命」をもたらして下さる師匠であるのです。

このように、日蓮大聖人の法門は、「人・法ともに尊し」の御金言一つとっても、あまりにあたりまえであると同時に、既成仏教の上でも、いかに革新的なものであるかということがわかると思います。

「他事をすてて」とは、南無妙法蓮華経の唱題行以外の修行を捨ててということです。南無妙法蓮華経こそ、全世界の一切衆生を救う普遍的な法であることを御断言されています。


例せば風に随つて波の大小あり薪によつて火の高下あり池に随つて蓮の大小あり雨の大小は竜による根ふかければ枝しげし源遠ければ流ながしと・いうこれなり、周の代の七百年は文王の礼孝による秦の世ほどもなし始皇の左道によるなり、(■講義二段目御書本文引用)


何事も根本で決まるということです。一切が、原点・源流の深さ・大きさ・長さで決まっていくということです。ここでは、例をあげて、人の世の幸不幸も、森羅万象・自然界の一切も、根本がどうであったかで決まると仰せになっています。

池田名誉会長は「『法の深さ』と『戦いの深さ』の二つが揃ってこそ広宣流布は進み、成就していく」と言われています。そして『戦いの深さ』とは、大聖人直結の不惜身命の信心で戦うことであり、日蓮大聖人に繋がる強盛な信心にこそ、広宣流布と幸福の源泉があると銘記しなければなりません。

また、広宣流布の戦いに即して言えば、私たちの今の戦いが「人類と地球の未来を決する」と言えましょう。


日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、無間地獄の道をふさぎぬ、(■講義三段目御書本文引用)


日蓮大聖人の不惜身命の戦いについて述べられた部分です。

慈悲曠大とは、日蓮大聖人が大難の渦中にありながら一切衆生を救う戦いを貫かれたことを指しています。戦う人が居て初めて広宣流布は進み、成就します。大難は慈悲と一体であるということです。

慈悲と勇気、励ましと折伏について、大変に示唆に富んだ戸田先生の指導を列記します。

戸田先生(創価学会第二代会長)の指導より「慈悲について」

「凡夫に慈悲など、なかなか出るものではない。だから慈悲に代わるものは『勇気』です。『勇気』をもって、正しいものは正しいと語っていくことが『慈悲』に通じる。表裏一体なのです」
「その心に満ちて、相手を折伏するならば、相手がきかないわけがない。どんなきかない子でも、母親の愛情には、かないません」
「かわいそうだ、だけでは、人は救えませんぞ。信心の指導、励ましのできるリーダーになりなさい。言うべきことはきちっと指導し、ご本尊に共に祈っていくことです」
「慈悲があるということは、即智慧につながっていく。その人のためにどうしてあげたらいいか。その慈悲から、一つ一つ具体的な智慧が生まれる」
「大聖人ほどの大慈悲の仏様は、断じてほかにおられません。この大聖人の大慈大悲を、全世界に宣揚しなければならない」

【主師親の三徳との対比】
衆生を慈愛する<親の徳>:「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもながるべし、」
正しい生き方を示す<師の徳>:「日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり、」
衆生を守り抜く<主の徳>:「無間地獄の道をふさぎぬ、」

※「ふさぎぬ」とは、無間地獄への道をふさいだということであり「大聖人の仰せどおりの実践で地獄におちるはずがない」ということです。


此の功徳は伝教・天台にも超へ竜樹・迦葉にもすぐれたり、極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず、正像二千年の弘通は末法の一時に劣るか、(■講義四段目御書本文引用)


現実こそが仏道修行の場であるということです。


是れひとへに日蓮が智のかしこきには・あらず時のしからしむる耳、春は花さき秋は菓なる夏は・あたたかに冬は・つめたし時のしからしむるに有らずや。(■講義五段目御書本文引用)


「日蓮が智のかしこきには・あらず」とは御謙遜ですが、日蓮大聖人は「末法」という「時」は、南無妙法蓮華経が広宣流布する「時」であると宣言されているのです。

以上。
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